本読み者として、「書籍」の最大の欠点は、「読むための時間」や「本を購入するためのお金」でもない。
保存しておくために「場所が占有」されることである。
我が家では、本を置くためのスペース分の家賃をいったいいくら払っているんだ、と考えると・・・
いや、考えたくない。
ゆえに、電子書籍はその「保管コスト」がかからないのが最大の利点である。
「ならば電子書籍は普及するのでは?」
否。
例えば、テレビを思い返してみよう。
その昔、テレビの記憶媒体は、ビデオテープ(VHS)であった。
(>まー、ベータMAXを使っていた人もいたかもしれないが)
これが意外と嵩張り、保管コストがバカにならなかった。
しかもビデオに撮った内容に限って再放送なんかされないもんだから、ここで手放したら一生再会出来ない「一期一会」な関係であった。
それがDVDになり、ブルーレイになり、HDDになり、今やネット配信の時代である。
観たいと思った時にすぐ観られる、しかも保管コストも掛からない。
なんと素晴らしい時代になったことか?!
では、あなたは映像作品(映画でもアニメでもスポーツでもいい)の観る量が増えたと思うか?
否。
逆に「いつでも観られるのが担保されているのなら、別に”今”観る必要ないし、時間が出来たときに後で観ればいいや」という気持ちなのではないだろうか?
多くの人が自覚していると思うが、「暇なときが来たら」なんてものの「暇」など一生来ないのである。
ゆえにHDDレコーダーでさえ、「いったいいつ観るんだよ・・・」というドラマや映画やアニメがわんさかと溜まっているはずである。
では何故それらを観ないのか?
保管コストと保管スペースが限りなくゼロだからである。
保管コストと保管スペースがかかれば、それを低減させるために消化せざるを得ない。
(>でないと、寝る場所も、足の踏み場もなくなってしまうからだ! これぞ「人類保管計画」)
私は電子書籍についても同じ道を辿るのではないか、と考えている。
つまり、電子書籍によって「本を読まなくてはならない」という状況(強制力)から解放される”自由”を得るのと対価に、「本を読まなくてはならない」という”必然性”もなくなるのである。
「いつか読もう」は、「いつになっても読まない」のと同義なのだ。
夏休みの宿題も「8月31日」があるからやるのである。
「8月30日」でお盆にまた巻き戻る「エンドレスな8月」では、夏休みの宿題は1万5千598回掛かっても終わらないのである。(>出典:『涼宮ハルヒの憂鬱』)
そして、私の Kindle や iPad の中には、一生掛かっても読みきれない電子書籍がインストールされ、そのまま「積ん読」になってしまう・・・という状態になる未来が手に取るようにわかるのだ。